相対論の中の気付きの種

  • 2008/09/23(火) 01:05:34

わかった!と思うときの快感は他の何にも変えがたい。
一般的にはあまり内容は知られていない相対性理論ではあるが、
気づきの感覚を得るチャンスが隠れている。

‖的相対性理論
相対性理論
・光に近い速度を持つ物体に起こる(時間と空間に関する)現象を説明する特殊相対性理論
・特殊相対性理論を加速度系、重力を取り入れて一般化した一般相対性理論

何やら核兵器と関係があるらしい、とか
すっごく速い宇宙船に乗ってると年を取るのが遅くなるらしいとか
そのような俗で表面的な話だけは聞いたことがあった。

調べてみれば、
今までの日常的な物理的感覚では理解できないような多くの現象が説明されていた。
・光の速さに近い速度で運動する物体では空間の縮み、時間の遅れが発生する。
・重力、加速度の大きい空間内でも時間遅れの現象が起きる。
・質量によって空間は歪み、これが重力をもたらす。
質量による時空の歪み

質量による時空の歪みのイメージ

日常的感覚が絶対という思い込みを打ち壊せ
上記の理論は全て相対性原理や高速度不変の原理、等価原理という
数少ない原理から導き出される結果だが、
日常的な感覚からして想像しにくいものであることは間違いない。

一方でニュートンの物体の運動に関する法則、方程式は
中、高等学校でもずいぶん触れてきた人が大半だろうし、
日々の生活に染み付き、それを日常として受け入れていると思う。

例えば、
重ければ重いものほど動かすときに大きな力が必要であることを示す運動方程式



スーパーで荷物を入れて2倍重くなったカートを
空のカートと同じようにあちらこちらに動かしてコントロールしたいなら2倍の力が必要になる
というのは、普通に生活している分には誰も疑問を抱かない
日常的な感覚として私たちに染み付いている。

ただ、そのカートに
力をどんどん、どんどん加えて、
物体の速度を速くして、速くなっていくと
物体は質量が増えて
特に光の速度に近づくとそれ以上速くすることは出来なくなる。

物のスピードを速くしていくと物が重くなっていくなんて(正確には動かしにくくなっていく)
日々生活しいる上でそんな日常外とも言える感覚を覚えたことなんてあるはずない。
しかし、今現在、”より”正しいとされている相対論に基づけば
ニュートン力学的、日常的感覚が全てだと思うのは間違いだ。
私たちの日常的感覚はより上位の理論の近似に過ぎない。

もう一つ例を挙げよう。
「すっごく速い宇宙船に乗ってると年を取るのが遅くなるらしい」についてだ。

時間というものは誰にとっても絶対に一定で、
今!というタイミングや1秒の長さは皆同じなはずというのが日常的感覚だ。
今誰かに「明日の12時に電話してくれ!」と頼むとする。
次の日、彼の時計が12時を示すその瞬間に掛ければ、
私の時計が12時を示すその瞬間に電話がかかってくるだろう。
彼にとっての12時と私にとっての12時とが同時だからだ。
日常的にはそんなの当たり前で、当たり前として片付けられて意識などするわけがない現象。
しかし、この日常的感覚の絶対性も相対論の手にかかれば瓦解する。

彼にとっての12時と私にとっての12時とが同時でなくなるということはどういうことか。
これはよくある例だが、
地球から見て光速に近い速度で飛ぶロケットの中にいる人と
地球上にいる人では時間の進みかたが異なるというものだ。
地球から見るとロケットの中の人はあまり年をとっていかないように見える。
時間の進みが遅く見えるわけだ。
これは相対性原理と光速度普遍の原理から導かれるのだが、
ここではなぜそうなるかという話は論点ではないので置いておく。

とにかくロケットで地球からいざ飛び立たんとしている人に
「明日12時に電話してくれ!」
と言っても、
ロケットから地球に電話がかかってくるのは13時とか14時とか遅れてかかってくる。
これは、ロケット内の人が時間を守らなかったわけではない。
地球の時計が12時を指しているとき、
地球からロケットの時計を見るとまだ11時とか、
少なくとも12時にはなっていないように見える。
その時点ではロケット内の人はまだ12時になっていなかったから掛けていなかった、
それだけのことである。
ここで面白いのは地球上の12時がロケット内の12時と一致していないということだ。
このように同時性の不一致というものが相対論から示され、
また一つ日常的感覚の絶対性が瓦解する。

0戝況觴
2つ目の例を深く考えてみると、
ロケットと地球上で本当はどちらの時間が遅れているのかという疑問が出てくる。
なぜなら地球から見るとロケットが離れていっているように見えるが、
ロケットから見れば地球が離れていっているからである。
お互い相手が光速に近い速度で飛び去っているように見えるならば、
お互い時間が遅れているように見えるはず。
ロケットから見れば地球の時間は遅れているし、
地球から見ればロケットの時間は遅れて見える。
では、ロケットと地球上で本当はどちらの時間が遅れているのかという疑問なのだが、

この疑問は意味をなさない。
なぜなら、どちらか一方の視点が絶対ということはないからだ。
そこにはただ地球上から見たときロケットないの時間が遅れて見え、
ロケットから見ると地球上の時間が遅れて見える
という2つの現象がそれぞれ存在しているだけである。
神の視点など存在しない。
どうしても神のような絶対時間を持った視点がある気がして、日常的感覚に引きずられる。
これこそが頭に巣食っている罠である。
ロケットからの視点、地球上からの視点それぞれが存在しているだけである。

ただし、2つの現象は独立していわけではなく、一定の関係を持っている。
ロケット内の時計で12時に電話を掛けると、
地球上の時計が13時すぎを示しているときに
電話が掛かって来るという時間的関係は存在する。(実際には空間的関係も含む)
これは哲学的言葉を借りれば間主観論という考え方のようだ。

竹内薫さんの例を借りれば、
AさんとCさんは親友関係、BさんとCさんは敵対関係であったとする。
このとき、Cさんは親友と定義するのが正しいか、敵と定義するのが正しいか。
そうではなくただ、AさんにとってCさんは親友、BさんにとってCさんは敵という関係がある。
どちらが正しいかなんて論じるまでもなく理解できる。
そして、このAさん、Bさんがお互い相手の立場を理解できるような関係が存在する。
これこそが間主観論という考え方。

ニュートン力学という日常的感覚の信仰を打ち壊し、間主観論という考え方に結実する。
このような道筋が脳の中に出来ることはこの上ない喜びであると思う。

相対性理論は人類の偉大な叡智。
我々に根付く日常的感覚を超越するとき、
確かに気付きの快感が得られると思う。
相対性理論など学問はそのような感覚を得るための一つの道具ともいえる。
一つ日常から外れた学問をやるのも楽しいと思う。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
別に生活の上で使わないからいいやと、
捨ててしまっていては人類が築いた叡智に一生気づかないで終わる。
因数分解なんて生活で使わないから必要ない?
脳の芯まで乾ききる砂漠みたいな言葉だ。
これまで人類が積み重ねてきた歴史の延長線上に生きていて、
ただ時間に流されて気づかないまま死んでいくなんて、
こんなに悲しいことはないのではないかと思う。

続きを読む

過去の身近さ

  • 2008/09/15(月) 01:18:40

過去の身近さ

人間がここ2000年で機能的にそれほど進化していないことを考えると
過去の出来事や人の行動を身近に感じられてもおかしくはない。
そのために必要なのは時代々々の背景・思想の想像力。


特攻隊


最近、中学時代の友人と会ってこんな話をした。
「中学時代なんてもう10何年も前の話だね。
でも、学校で部活をしていたり、
教室で皆とFFとかゲームの話をしていたことも昨日みたいに感じる。」

中学生のころ30, 40歳とか大人になるということは遠い未来のことだと思っていたけども
年を重ねるごとにもっと先のことも身近に感じられるようになってきた
しかし、同時に過去のことも非常に身近に感じる。
という体験はないだろうか。

現在の年齢- 中学1年 = 10何年

10何年前ってどれだけ遠い昔なのだろう?

あの日あの時起こった出来事は
記憶の鮮明さはともかくとして昨日のように身近に感じる。
小渕さんが平成の年号を掲げた映像や
ワールドトレードセンタービルに飛行機が吸い込まれていく映像が
何度も、何度もテレビで流れているのを見たのも昨日のことの様。
この感覚だと後60年経ってこの世を去るときにもおそらく同じ様に感じるのだろうなと思う。

911テロ


上記は私が生きていた過去を考えたときの感覚だが、
では。
生きていた過去にとらわれずに50年前、100年前など
それ以上前のことも身近に感じることはできないのだろうか。

太平洋戦争で戦った人が身近にいるという人、
祖父や祖母からその体験談を聞いた人は多いのではないかと思う。
東京で焼夷弾が落ちて来る中を逃げ惑ったこと、
中国で敵の包囲を受け隊が全滅寸前になったことなど、私も祖父、祖母から聞かされたが、
たった60年前に目の前にいる人が
そんな体験をしていたなんて子供のころはにわかに想像がつかなかった。

しかし、第二次大戦の小説、映画を通して、映像だけでなく
その時代が”御国のために”という唯一絶対の思想の統制化にあったことを
何度も見、読み聞きして考えるようになってからは
その60年前がずいぶんと身近に感じるようになった。
私がもしあの思想の中で育っていたら
間違いなく”御国のために”と思い、それに準じた行動をとっていた、と。

ある映画で特攻隊隊員の祖父が会津白虎隊隊員だったという話があった。
その特攻隊隊員にとって戊辰戦争はどれほど遠い過去だったのだろうか。
佐幕、倒幕、開国、攘夷、
それらの思想によって行動していた時代をどれほど身近に感じたのだろうか。

私が子供のころに太平洋戦争の話を遠く感じていたのは、
60年前という遠い過去だったのが理由ではなく、
その「御国のために」「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」
という思想を遠くに感じていたからだった。
御国のために、とは?
そんなものは資本主義、野獣的快楽主義という現代の思想を根底に持った
私には理解不能であると割り切っていたことが原因だった。

祖父は太平洋戦争の時代を生き、その時代に生きた人の祖父は戊辰戦争の時代を生きた。
たった2,3代でその時代を背景に思想はこうも変わる。
物心ついたころからある現代思想は普遍ではない。少なくとも後50年の間に必ず変わる。
人と社会の思想の変化の早さに気づかなかったからこそ、
私は人やその他メディアの語る過去を関係のない遠い昔のことと考えて自ら距離をとっていた。

この2000年やそこらでは機能的にはほとんど進化を遂げていないヒトである私たちは
各々の場所、時代の背景と思想が理解できるようになれば、
その時起こった出来事をもっと身近に感じることが出来るのではないかと思う。


これは自分自身の中で過去の時間的な距離感をなくすことに有効なのでは、と思う。
では、このFlat Worldの空間的な距離感をなくすことにも有効なのだろうか。
では、インターネット内にあるような仮想世界を身近に感じるためにはどうだろう。